
昭和50年代後半まで、京成津田沼には10月30日の記事でお伝えした第一工場とともに2つの工場が存在し、第二の方は新京成新津田沼駅の北側、現在の「イオン津田沼SC」の場所にあったわけですが、そのうちここで公開するのはイオンの東端にある「さくら公園」や駐車場入口となっている付近を、昭和57年2月頃に撮影した画像です。
手前に止まっているのは晩年に行商専用車として使用されたモハ700形704号の廃車直後の車体で、クハ2200形2203号とともに最後まで青電色で活躍した車両です。そして、奥にはまだオリジナル塗色だった初代スカイライナーAE1形が止まっていますが、その手前に見えるのが、大正生まれのモハ33形の車体を昭和13年1月に鋼体化した300形の廃車体です。昭和30年4月の新京成の全線開通を機に京成から移籍された14m級の小型車両で、昭和40年代前半に行われた車体新製による更新で不要となった旧車体が、このように初期の新京成カラーのまま倉庫として長らく使われていました。
なお、画像をよく見ると、スカイライナーの奥にも倉庫として使用されていた2両の廃車体が確認できますが、単色に塗り直されてしまっており、オリジナル色ではないことがわかります。また、この2両の形式については残念ながら失念したものの、画像を見る限りでは右側は同じ300形ながら、左側は車体中央にも扉があることから別形式のような印象を受けます。
余談ながら、この画像の上側に正門とは別の門があり、車両の更新工事の際にはその門から総武線脇にあった大栄車両の工場まで、陸送により運んでいました。その大栄車輌があった場所は、現在「エクセル津田沼」というマンションがそびえ立っています。
さらに付け加えると、この当時の京成津田沼〜新津田沼間は、あくまでも京成の第二工場への引き込み線であり、そこへ新京成が乗り入れを行っているという形でした。従って線路や枕木などの軌道設備は非常にお粗末なもので、そのうえ急カーブの連続とあって車両が大げさに揺れ、最近の車両よりも長めだった吊革が網棚に繰り返しぶつかって、それはそれは凄まじい音をたてながら走行していたものです。それどころか、脱線事故もしばしば起こっていたという始末でした。今となってはとても考えられませんが・・・


:京成津田沼第二工場があった場所の現在の様子。この交差点のちょうど角付近に車両陸送用の門があった。
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:第二工場と同じく昭和50年代後半まで大栄車輌の工場があった場所。現在は高層マンションとなっている。
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:参考までに津田沼2丁目にある現在の大栄車輌本社ビル。とはいってもその大部分が学習塾となっており、ビルの隣には「大栄駐車場」があるのみで、肝心な大栄車輌の事業所等はないとのこと。
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しかし、何の目的で工場を2つに分散していたのか、謎ですね…。それとも歴史的経緯なのでしょうか?
工場と車庫全体をプラスした土地面積では、第一のほうがわずかに大きかったようです。
それは、現在も残っている津田沼車庫の部分も含めているからでしょう。
分離していたのは、戦前からあった第一工場が車両数の増加によって手狭になったため
戦後に新津田沼にあった鉄道連隊の車両工場を借り受けたという経緯があったからです。
その後は第一が部品関係、第二が車両本体の修繕とそれぞれ作業が分担されていたようです。
やはり、分離していたのは歴史が関係していたんですね…。
詳しくご教示していただきありがとうございます。